エッセイ

朝の太陽から聞こえる声(2019)

私は自分自身について考える時、太陽を眺めていた子供時代を取り戻す希望の道を探しに出た巡礼者の小道を力強く走ってきた人の中の一人だと思う。私は地を失ったが天を取り戻した人になったという確信を持って生きている。

ただの一度でも太陽を見たいと思っている人がいるとすれば、それは生まれた時から前を見ることができない人である。また、切実に太陽を見たいと思っている人の中には、誤って失明した人も多いだろう。

目が見える人たちは、太陽と一緒に明るい世界で生きているので、太陽の存在を当たり前のように思い、その感謝の気持ちを忘れて生きている。しかし、視覚障害者の場合は、常に真っ暗な闇の帳の中で生きているので、太陽をさらに懇切に願う。間違いなく、悲劇的な人生の桎梏を背負って人生を生きていく群れだ。生活全てのあちこちが地雷源と変わりない人生を生きている孤独な人たちだ。

彼らは、目の代わりに聴覚と嗅覚、味覚と触覚を利用して、太陽という存在を感じて生きている状態だ。それにもかかわらず、日常の中で、太陽の偉大な存在を完全に理解するのは不可能に近い。ただ一度だけでも太陽が与えるきらびやかな世界を見、その中で静かにささやく自然の声を聞けたら、どれほど幸福だろうか?

私は韓国動乱の中で、友人らと遊んでいる時に、手榴弾の爆発で悲劇にも失明した恨(ハン)を持って生きている。子供の頃、見て喜んだ朝に昇る太陽を常に慕いながら、今日も朝を迎える。

私にとって太陽は、私を生んでくださった両親のような愛の存在であり、神様を見つけるように希望を与えた霊魂の偉大さであらざるを得ない。

生命とも同じ太陽の代わりとなる道を、どこで見つけることができるだろうか。ただ聖書を通して自省と省察をし、人生の高さと深さを思惟し、人生の目的と幸福に至る成功を成したために、失明後、70年余りの間を生きてきた私の信仰経験を、感謝する気持ちで分かち合いたいと思う。

第一に、私をこのように育ててくださり勉強させてくださり、指導者にしてくださった計り知れない多くの方々の恵みとありがたさに感謝を申し上げる。

第二に、砂漠のように荒涼とした環境でも共にいてくださった神様の恵みで、何の条件もなくシロアム眼科病院とシロアム福祉館、療養院、サリバン学習支援センターをはじめとするいくつかの機関が数万の星のように計り知れない人たちの目の苦痛を軽減させ、光を見つけ、奨学金で指導者を育てて、前が見えない彼らの絶望を希望に変えた。また、重複障害で家庭や学校で教育を受けることが難しい人たちが人間らしく活動できるようにする高貴な仕事をしてきた。そして、高齢で行くところのない視覚障害者に避難所を与える療養院を成した。これを助けてくださった方々に感謝を申し上げる。

第三に、この全てのための教会と先輩後輩の同労者たちの温かい愛と施しがあったお陰で、絶望を希望の光に変えることができた。だから、私は言葉では表現できない神様の愛と、惜しみなく周りの方々の施しをこの世に残すために、毎朝、神様に礼拝をささげながら、み言葉を通して伝えてきた。 そして、これを整理して、「朝の太陽から聞こえる声」という題名で、希望のメッセージを残すことができたことを、諸手を上げて神様に感謝し、地上で熱く声援してくださった方々の愛に、ひざまずいて感謝する。